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作家・アーティストの小林エリカさん=2024年、東京都渋谷区

Re:Ron特集「考えてみよう、戦争のこと」 作家・アーティスト 小林エリカさん

世界各地で戦禍が絶えない。戦後80年のいまこそ、子どもたちに伝えたい。文学やアートなど様々な形で戦争に向き合ってきた大人たちに、あなたと考えたい「言葉」をつづってもらいました。

 戦後、80年の夏。

 あちこちで、実際の戦争体験者がいなくなりつつある今、それを知らない若者たちがふたたび戦争を繰り返すことになってしまうのではないか、というような話がもっともらしく語られているのを、よく私は耳にします。

 正直、けれど私は、それは違うんじゃないか、と考えています。少なくとも、私は、それは違う、と言い続けなければいけない、と思っています。

 そもそも、体験しなければ、想像することさえできないのだとしたら、それは自分を含む全作家、全芸術家、全文化の敗北ということになるでしょう。

 真のミステリー小説を書くことができるのは、実際に人を殺したことがある人だけではありません。ふたたび戦争を体験してみない限り、それを想像さえできないのだとしたら、それほど絶望的なことはありません。

 それに、実際の体験者がひとり残らずいなくなったとしても、まだまだ聞くべきことはある、と私は、考えているから。

 これから、私はそのことについて、書きたいと思います。

 私は『女の子たち風船爆弾をつくる』という本を書きました。

 それは第2次世界大戦中、風船爆弾という秘密兵器をつくるために東京宝塚劇場へ集められた女学校の生徒たちの、実話をもとにしたお話です。

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『女の子たち風船爆弾をつくる』(文芸春秋)

 雙葉、跡見、麴町高等女学校という、いまもある女子校の、いまでいうところのだいたい中学2年と高校1年の女の子たちが、勉強をするかわりに工場と化した劇場へ動員され、秘密兵器をつくったのです。ちなみに私も女子校へ通っていましたので、クラスメートには東京宝塚劇場で出待ちを欠かさない「ヅカファン」がおりましたし、その3校の制服は電車のなかでよく見かけていましたので、その事実を知ったときには驚きました。

 ところで風船爆弾とは、和紙をコンニャクのり(!)で貼り合わせた、直径約10メートルの風船に爆弾や焼夷(しょうい)弾をつり下げたもの。それを太平洋岸の福島県勿来、茨城県大津、千葉県一宮から飛ばし、偏西風に乗せ約3日で太平洋を横断させ、アメリカ本土直接攻撃をもくろむものでした。約9300発が放球され、約1000発がアメリカ本土に届いたといわれ、オレゴン州ブライの教会日曜学校の子ども5人と牧師を夫にもつ妊婦1人、計6人が亡くなり、それが第2次世界大戦中アメリカ本土唯一の犠牲者となりました。

 私は、かつて東京宝塚劇場で実際に風船爆弾づくりをおこなった、元雙葉の女学生だった南村玲衣さんという方にお会いして、お話を聞くことができました。

 彼女は、戦後40年経ったとき、街の書店のショーウィンドーに並ぶ本の表紙に、かつて自分がつくったのと同じ風船の写真を見つけたそうです。そしてそこには「風船爆弾」と書かれていたのです。そうしてはじめて、かつて自分がつくらされたものが、風船爆弾という兵器だった、と知ったというのです。彼女は結婚し子育てをしていた主婦でしたが、そこから防衛庁(現・防衛省)へ通い、かつての同級生たちに聞き取りをして、「風船爆弾 : 青春のひとこま : 女子動員学徒が調べた記録」という本を書き上げ、自費出版しました。それが私の知る限り、唯一、東京宝塚劇場での風船爆弾づくりに関する、まとまった本でした。

 そうして調べてゆくうちに、風船爆弾を研究開発していた陸軍登戸研究所の実態についても、なんと戦後40年もの間、その全貌(ぜんぼう)が不明のまま、この歴史からなかったことにされていたのだ、という事実を私は知りました。

 戦争中、そこでおこなわれて…

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